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| 旧二本松藩戒石銘碑(福島県立霞ヶ城址公園) |
―原典は千年以上前の中国の文献
二本松城(別名・霞ヶ城)は1643(寛永20)年から1868(明治元)年まで二本松藩・丹羽氏の居城であったが、現在その城址は県立霞ヶ城址公園として整備され、市民の憩いの場となっている。現存する茶室のほか、後に復元された天守台や櫓、塀、門などが往時の面影を今に伝えているが、城の東手にはかつて藩庁があり、藩士たちの通用門があった。その藩庁前に露出する長さ約8.5メートル、最大幅約5メートルの自然石(花崗石)が、この「戒石銘碑」である。
五代藩主・丹羽高寛公(丹羽家七代)が、藩儒学者の岩井田昨非の進言により、藩政改革と綱紀粛正のため刻ませたもので、1749(寛延二)年3月に完成。その原典は中国・五大時代の君主孟昶による「戒論辞」とされ、表面の縦103センチメートル、横182センチメートルの枠内に漢文で次のように刻まれている(読み方は編集部挿入による)。
爾 俸 爾 禄 (なんじの俸、なんじの禄は)
民 膏 民 脂 (民の膏、民の脂なり)
下 民 易 虐 (下民は虐げ易きも)
上 天 難 欺 (上天は欺き難し)
寛延己巳之年春三月
直訳すると、「お前(武士)がお上から頂く俸禄(給料)は、人民の汗と脂の結晶である。下々の人民は虐げ易いが、神を欺くことはできない」となる。つまり、「武士たちは人民を労わり、感謝せよ。その気持ちを忘れて人民を虐げたりすると、天罰があろうぞ」ということだ。
この戒石銘が、二本松藩士の士気を奮い立たせたことは言うまでもない。戊辰戦争では、藩の子弟が二本松少年隊として西軍に対して奮戦力闘し士道に殉じているし、また重臣の多くが城を枕に自刃して武士の亀鑑(模範)を示したこともその心因のひとつとされよう。1935(昭和十)年12月24日、教育的資料、または行政の規範として価値が高いことから重文に指定されたが、奇しくも一昨年、二本松市長が公共工事をめぐる収賄事件で逮捕、起訴された。当時、マスコミ各社がここぞとばかりにこの戒石銘を引き合いに出して前市長を糾弾したことは記憶に新しい。
―意外と格式が高かった二本松丹羽家
なお、二本松市は人口三万五千人余りの小都市であるが、丹羽二本松藩が当時治めていた領域は、現在の二本松市全域と安達郡全町村、郡山市の3分2、そして猪苗代湖の一部が含まれていた。これを全国石高ランクで見ると、266藩のうち、十万石以下が212(約80%)を占めることから、十万七百石の同藩が上位に位置していたことが理解できよう。
また、江戸 城内で諸大名が控える部屋(詰所)には家格の高い順位に八ランクあり、丹羽家は島津、伊達、細川家と同席できるナンバー二の大広間詰めであった。これは戦国時代に百二十三万石の筆頭大名であった格式を、当時の幕府が認めていたためとされている。
余談ながら、当地は「鬼婆伝説」の地として全国的に有名であるが、その「鬼」の本場でありながら、節分で豆まきをするときは「鬼は外、福は内」とは言わない。なぜなら、「鬼は」の読みに「お丹羽」の文字を当てることもできるので、いつしか藩主に対する配慮から別の掛け声になったらしい。そのため、当地では「鬼外、福は内」と言うそうだ。
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