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| 大谷磨崖仏(栃木県宇都宮市)〜遺跡に作られた石仏〜 |
その昔、峠越えの難所として知られる神奈川県の足柄・箱根周辺を境にして、さらに東に広がる国々、つまり関東一円のことを「坂東」と呼んでいた。お遍路さんで名高い四国88ヶ所の霊場巡りはつとに有名だが、関東の「坂東33ヶ所観世音霊場巡り」となると、知る人は随分少ない。1番の杉本観音(神奈川・鎌倉市)から始まり、岩殿観音、田代観音、長谷観音…と続いて、最後の名古観音(千葉・館山市)まで1都6県を巡ることになる。東京・浅草寺の浅草観音(13番)、栃木・中禅寺の立木観音(18番)、あるいは茨城・楽法寺の雨引観音(24番)などは皆さんもご存知であろう。今回紹介するのは、その19番札所に定められている栃木・大谷寺の大谷観音、そう、あの有名な大谷石の産地にある磨崖仏である。この大谷観音は昭和29年に特別史跡、同36年に重要文化財に指定(わが国初の二重指定)されている。
―日本最古の石仏か?
ここに磨崖仏が造られたのは、やはり大谷石が軟質で彫刻に向いていたからだろう。凝灰岩の山裾に岩盤を削りとったような大きな洞穴があり、その岸壁面に10体の石仏が立体感溢れる厚肉彫りで彫られている。観音堂の右手の入口を入ったところが第1区で、ここに御本尊の千手観音が、さながら羽を広げたクジャクのように(合掌手を除く)40臂の手を放射状に広げている。「日本最古の石仏で、平安時代前期の弘仁元年(810年)弘法大師の作と伝えられる」ということだが、これはどうも眉唾モノといわざるを得ない。たとえば兵庫・加西市の一乗寺近郊の 古法華山に安置されている三尊石龕仏は、奈良時代前期(白鳳時代)の作で日本最古の石仏の1つと考えられている。
それはともかく大谷寺の観光案内によれば、その像容から推察すると、奈良時代に作られた木心塑造、つまり奈良・法隆寺仁王門の仁王像や東大寺戒壇院の四天王像などと同系統であるという。木心の代わりに凝灰岩を心(土台)にして、その上側全体に朱を塗り、さらに塑土を何回かに分けて塗って42臂及び数百本の小さな手を作り、像容を整えてから漆を塗り、最後は金箔を全体にはいて仕上げた、とのことである。今では金箔がすっかり剥げ落ち て往事の面影は見られないが、さぞや薄暗い岸壁を背にして煌びやかな光を放っていたに違いない。
さらに奥に進むと、第2区に釈迦三尊(平安後期)、第3区に薬師三尊(平安初期)、第4区に阿弥陀三尊(鎌倉期)が現れる。合成樹脂の吹き付けなどによって一応の保存修理が施されているが、もとより凝灰岩は多孔質なので、すでに表面の一部が剥落しているところも幾つかある。しかし、いずれの石仏も時代の経過を感じさせないほど霊気に満ちている。いや、むしろ数百年、千何百年という気の遠くなるような時間の経過がその威光に磨きを掛けたともいえる。つい両手を合わせてしまうほどの迫力だ。石材業を営む方であれば感慨もひとしおのはず。是非ともご覧頂きたい傑作である。
―磨崖仏下からは縄文最古の人骨も
話は逸れるが、実はこの磨崖仏の周辺一帯は、昭和40年に発掘された遺跡でもあるのだ。正式名称は「大谷寺洞穴(または岩蔭)遺跡」。ちょうど磨崖仏下の地層から 土器片や石器、獣骨、貝殻、新しいものでは五輪塔など様々なものが出土し、その後の専門家の調査によって縄文時代草創期(約1万1000年前)から弥生式土器時代(約2000年前)に至る約9000年間に及ぶ住居跡であることが判明した。さらにこのときの出土品の中に、手足を折り曲げて横臥(横向きの姿勢)で埋葬された屈葬人骨があった。時代は縄文草創期のものと見られ、身長約154センチメートルの痩せ型で20歳前後の男性であるらしい(大谷寺宝物館収蔵)。この人物がどのような身分、地位であったかは分からないが、そのすぐ近くに磨崖仏が作られたことと何か関係があるのだろうか。まさに謎が謎を呼ぶミステリーだ。
◎天開山大谷寺=栃木県宇都宮市大谷町1198
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