荒七酒店(茨城県)
日本民藝館(東京都)
旧青山沈でん池(神奈川県)
ビアレストラン「クラストン」(岩手県)
酒船石遺跡(奈良県)
満濃池樋門(香川県)
大猷院廟奥の院(栃木県)
大阪府立中之島図書館(大阪府)
日本銀行本館(「旧館本館、東京都)
蜂須賀家万年山墓域(徳島県)
霊台橋(熊本県)
八幡神社石鳥居ほか(山形県)
大谷磨崖仏(栃木県)
仙台東照宮(宮城県)
阿弥陀三尊石仏ほか(京都府)
仏足石、仏足跡歌碑(奈良県)
保月六面石幢(岡山県)
日生京都三条ビル旧棟(京都府)
旧二本松藩戒石銘碑(福島県)
山王廃寺塔心柱根巻石(群馬県)
岩戸寺宝塔(大分県)
岩戸寺宝塔
 (石立山岩戸寺・大分県国東市国東町)

―在銘最古の国東塔

「仏の里」とも呼ばれる、大分県の国東半島は石造美術の宝庫である。宝塔の一地方型である国東塔は、半島全域及び隣接する速見郡のみならず、福岡に近い中津市や熊本寄りの玖珠郡からも発見されているが、それら五百基近くあるうちの約九割が国東半島と速見郡内に分布する。幾つか重要文化財に指定されているが、その中で在銘最古の国東塔として知られるのが石立山岩戸寺(国東市)の宝塔だ。

国東半島のほぼ中央に位置する両子山(標高721メートル)から北東の海岸へと伸びる県道544号線沿いに岩戸寺がある。両子山の中腹を走る周回道路を使えば、半島内のどの方角にも降りられるが、当日は台風による土砂崩れで最短経路はあいにく通行止めになっていた。迂回して安全な道路を選べば日が暮れて写真は撮れなくなってしまう。そのため、一か八か、ナビが指示しない細道を選ぶことにした。

樹木に覆われた薄暗い山道を進むと、道幅は狭く険しくなり、だんだん不安になってきた。しばらく走っているのに対向車が一台も来ないのだ。国東半島では奈良・平安時代に「六郷満山」と呼ばれる独特の仏教文化が花開いたが、当時の天台宗寺院に半島のほぼ一周160キロメートルを4日間で踏破する「峯入り行」という荒行があった。その難行に参加した僧侶たちもこうした山深い樹木の中を黙々と歩き続けたに違いない。

途中、大きな枝が道路に散乱し、土砂崩れの心配もあったが、何とか無事に反対側の県道に出ることができた。すでに日は沈みかけていたが、その時、撮影したものが左の写真だ。

―県外から来た天沼博士が命名

国東塔の名付け親は、京都帝国大学の天沼俊一博士。明治45年3月、天沼博士は富貴寺(豊後高田市)の大堂を修理するため来県、その時、境内で変わった形式の石塔を目にして興味を持つ。その後、国東半島各地に同形式の石塔が多数分布していることを知り、所在地にちなんで「国東塔」と命名した。弘安六年(1283年、鎌倉後期)の銘がある岩戸寺宝塔が在銘最古とされ、それ以降、南北朝、室町、江戸と各時代で作られたものが確認されている。

宝塔との大きな違いは、台座があること。宝塔は下から基礎、塔身(軸部)、笠、相輪の各部からなるが、国東塔は基礎と塔身の間に台座が設けてあるのだ。 台座は反花と蓮華座からなるが、いずれか一方だけの場合が多い。

(写真右=天沼博士が国東塔に興味を抱くきっかけとなった富貴寺(豊後高田市)の宝塔。このほか境内には仁王像や笠塔婆、石殿、板碑など数多くの石造品がある)

―建立の目的

塔身上部の首部には通常、小さな孔が開けてある。この孔は塔身内部の空洞に通じ、 仏舎利や経典、毛髪などを納める奉納孔とされている。この岩戸寺宝塔の塔身には「如法経奉納石塔一基、右志者為当山平安、仏法興隆広作修善…」と記されており、弘安の役の直後、当山の平安と仏法興隆を願って法華経が納められたことが判明している。

納経以外では墓標や供養のため、あるいは逆修として建てられることもあった。逆修とは生前から死後の菩提を祈って仏事を行うこと。灌頂経や地蔵本願経などの説に基づくもので、平安時代に盛んになった。生前に法名を付けたり、位牌や石塔に朱書することも逆修に当たり、現代では「寿陵」(「逆修墓」ともいう)がこれに該当する。仏の里ではこうした思いが七百年以上経った今も息づいているのである。

(写真右=参道の両側に立つ岩戸寺の仁王像。高さ157センチメートル、安山岩。阿像の後ろに「文明十年(1478年)」の造立とされる年号が刻まれており、室町中期の作とされる)