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| 蜂須賀家万年山墓域(徳島県徳島市)〜そこは儒葬の地〜 |
―そこは儒葬の地
徳島県徳島市のシンボルと言えば眉山。頂上からは市内が一望でき、天気が良い日は淡路島から紀伊半島まで見えるという。万葉集にも「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山…」と歌われたこの眉山。その一角に、徳島藩主であった蜂須賀家の墓域がある。そこは「万年山」と名付けられ、儒葬の地として造成された。
平成9年に徳島市の指定文化財となったが、そこはひっそりとした場所で、市民にもあまり知られていないようだ。
―十代藩主重喜が造成
十代徳島藩主である蜂須賀重喜(1738〜1754)が、藩主とその一族の新墓所としてこの墓域を造った。「万年山」と名付けたのも重喜で、その年1766(明和3)年。藩政改革の一つとして行われたもので、これまでの仏葬から儒葬に変えたのが大きな特徴である。これは、重喜が日頃から熱心に推奨していた儒教精神を表したので、その意義は墓域内にある石碑に刻まれる。
墓域面積は約22ヘクタール。儒葬された人々は合計53体。墓域内には、藩主・正室・側室・子供・親族たちそれぞれグループをつくって大小様々な墓石を建立。ここが儒葬の地であること、広いこと、大きな墓石があることで、全国的にも珍しいと言われている。
―儒葬とは…
では、「儒葬」とは一体どういうことなのであろうか。国史大辞典によると、
『 儒葬の儀式による葬儀。日本では江戸時代の儒者が南宗の朱熹(朱子、1130〜1200)の家礼などを参考にして行なった。
仏葬は儀式を僧侶に託するが、儒葬は自葬であって、喪主以下の人々が柩を奉じて墓所に至り、棺前で祝詞を読み香を焼き拝礼し、死者の魂を神主(しんしゅ・位牌)に遷して家に帰し、その魄(白骨、遺体)を墓所に葬るのを例とした、とある。
儒葬は京都・会津で多いが江戸では少なく、采地(さいち・役人の知行地、領地)があれば可能であるが、その他は時代の状況によって行われるので、多く存在しないそうだ。
儒葬をした代表的な人物として、藩主層では、尾張の徳川義直、岡山の池田光政、水戸の徳川光圀(水戸黄門)などがいる。
重喜以降の藩主は、禅宗・大雄山興源寺境内に、遺髪を納めた墓石も建てた。両墓制である。そもそもこの興源寺は蜂巣賀家の菩提寺であったためで、八代藩主宗鎮の墓は五輪塔で、その高さ何と約5メートルにもなる。先祖供養、子孫繁栄といった願いが強く込められていたのだ。
―モラエスを魅了した徳島の墓地
「徳島の盆踊り」(講談社学術文庫)の著者であるポルトガル人モラエスは、その本の中で日本人の死生観を語っている。大正時代に書かれたものだが、当時の祭祀、また墓地、墓についても多く触れられている。モラエスがこの万年山を訪れたかどうかわからないが、重喜の儒教精神、つまり先祖供養といったものが当時は強く残っていたに違いない。
徳島の墓地めぐりもまた楽しそうだ。 |
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