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| 霊台橋(熊本県砥用町)〜日本一の単一アーチ橋〜 |
―全国半数の石橋が熊本に
熊本県は石橋が多いことで有名だ。江戸後期から明治初期にかけて、肥後の石工らによって架けられたものだが、その数なんと約250基、全国の石橋の半数近くになるという。中でも熊本を代表する緑川は支流を含めた総延長が434キロメートルに及び、その流域には大小約60もの石橋が存在する。今回その中で国の重要文化財に指定されている「霊台橋」(下益城郡砥用町)を紹介しよう。
―「種山石工」の祖とは…

その前に「肥後の石工」について解説しておきたい。彼らは石工の技術集団で、種山(現八代郡東陽村)に住んでいたため「種山石工」とも呼ばれた。その祖といわれるのが藤原林七だ。身分は下級武士だが、その役人がなぜ石工の道を歩むことになったのだろう…。
鎖国時代、林七は長崎奉行所に勤めていたが、長崎の眼鏡橋が落ちないことに常々疑問を抱いていた。そこで密かに外国人と接触するが、これがバレて長崎を追われるはめになる。この時代はアーチの計算に必要な円周率を知るのも命がけだった。
そして武士を捨て肥後種山に身を隠し、農業のかたわらその生涯を石橋作りに捧げた。その結果、曲尺を使った熊本城の石垣の積み方をアレンジし、林七流アーチ論を完成させた。この知識と経験が息子の嘉八、さらに孫たちへと受け継がれた。嘉八の息子のうち卯助(仙蔵)、宇市、丈八は種山石工三兄弟として知られ、中でも丈八は幾多の実績と通潤橋を架橋した功により橋本姓を授かり、のちに橋本勘五郎としてその名を広めることになった。
―生命線としての石橋
しかし、いくら技術が優れていても種山石工だけで石橋は作れない。私財を投げ打って建設費を援助した村の惣庄屋、あるいは農耕の手を休めて黙々と石を運んだ農民、住民らの協力があればこそだった。彼らは物資の輸送や病人の搬送、農耕に必要な水路など生命線として橋を必要としていた。また地理的な背景として、阿蘇の火山灰でできた加工しやすい凝灰岩が容易に手に入ったことも大きな助けとなった。
―わずか6カ月で完成
霊台橋は緑川本流の最大の難所・船津峡を跨いで架かる。以前からあった木材の橋が洪水の度に流されたことから、弘化4年(1847年)時の惣庄屋・篠原善兵衛の下、種山三兄弟ら石工72名ほか大工棟梁の伴七たち、地元住民らが総力を結集。そしてわずか6カ月という短期間で全長約90メートル、アーチスパン28メートル、幅員5.5メートルの日本最大の単一アーチ式石橋を完成させた。その後、交通量の増加により明治期に石橋の上部を少し加層したが、長年の使用で石の亀裂や弛みなどが生じ、昭和42年この上手(国道218号線)に新鉄橋が架橋され廃橋となった。今ある石橋はこの時、建設当初の姿に復元されたものである。それまで毎日この上をバスやトラックが走っていたというから驚きだ。
―見た目の華やかさないが…
肥後の石橋は、橋の両側に高欄や飾り彫りなどのあるものは少なく、機能・耐久性を重視した堅牢にして質素、素朴なものが多い。今なお地域と密着し現役で活躍するものもあれば、人知れず山奥の渓谷でひっそり佇んでいるものもある。確かに見た目の華やかさはないが、長年の使用に耐えてきた奥深さが感じられる。しかし風水害で破損したり河川改修で取り壊されて、味気ない鉄筋コンクリートの橋に変わってしまったものも多い。いくら役目を終えたとはいえ、肥後石工らが命懸けで作ったことを考えると何とも残念でならない。全国の石工の皆さん、たとえ無名でも石橋はご先祖様が残してくれた無名文化財です。長く大切に残してほしいものです。 | |